昭和46年03月02日 朝の御理解
御神戎 一、「信心する人の真の信心なき事。」
御神訓 一、「今月今日で一心の頼め。おかげは和賀心にあり。」
今日の御神訓とはね、丁度何もない境目のところ、そこんところを頂きます。いわば、御神戎と御神訓の最後と初めを頂きたいと思います。私は思うのですが、御神戎とは神戎とは信心させて頂く者がこういう事があってはならんぞと云うことである。信心する人はこういうことであてはならんぞ、しかもその御神戎を一つ一つ頂いてみまして難しいことは一つも言うておられません。こうあってはならないと云うこと。
成程人間であるならば、その気になれば誰でも出来ること。例えて云うと、いろんな宗教がありますが、妻帯してはいけない。肉食してはいけない。お酒を飲んではいけないとかそういう一つの人間性を欠いだもの、そういうものではない、教祖の教えて下さる御神戎、人間誰でもがその気になれば誰でも出来ること。御神戎とは、信心させて頂く者はこういう事であってはならんぞと、云うことである。
しかも今云う様に、その気になれば誰でもそのおかげが頂けれると、云うところにお道の信心の素晴らしさと云うか、御神戎の素晴らしさ、いわゆる人間性と云うものがその中に含まれておる。人間性を欠く様なことがあってはならない。人間が妻帯してはならないとか、何と言いますか、私は詳しくは知りませんけども、キリスト教の十戎とか言うものは大変なこと。仏教で云う五戎に於いてもしかりである。教祖様の御神戎はそんなものじゃない。人間誰しもがその気になれば出来る。そして又思うこと。
成程信心させて頂く者はそんなことであってはならないなとすぐに合点が行く程しの事ばかりである。ですから、ここんとこの御神戎を読んでご覧なさい。信心させて頂いて自分は何処が欠けておるか、先ず分かる。信心させて頂いてこんなことではいけないと云う事が、それを平気で犯すと云うか、破ると云うか、それでは信心は出来ない。云うなら、容易なおかげの頂けれる道、容易う神様になれる道。誰しもその気になればこれを頂けれる道。それが御神戎。
そうすると御神訓と云うことはどういう事かと、御神戎では、信心する者はこういう事であってはならないぞと云われておるが、なら御神訓とは、信心させて頂く者はこう有らなければいけないぞと教えておられます。これからの事、これから信心させて頂く者、こういう心掛けになれよと教えておられます。そのこうあらなければならないと云う事も、ちっとも難しいこと仰っておられません。それは、例えば、
疑いを離れて広く真の道を開けよ。吾が身は神徳の中に生かされてあり。と、云うことを教祖の御自身の御信心から体験されたものと思われます。ここは、疑いを放れて広く真の道を開けよ。吾が身は神徳に中に生かされ てあり。それは、だから習わなければ分からないことである。お互いが神徳の中に生かされてあるのですけれども、だからこそ教祖は、又御理解に、氏子に信なければと仰った。
私共の心、私共の心から、吾が身は神徳の中に生かされて有るんだなあ、それにはどういう在り方にならせて頂いたら、わが身は神徳の中に生かされてあるかと云うことを分からせて頂く道を、又じゅんじゅんと、説いておられます。吾が身は神徳の中に在ると分かる。そこに有難い事じゃな、勿体ない事じゃなと云う事になる。例えば、御神訓の今二つの所を申しましてもその通り、生きても死んでも天と地は吾が住家と思えよと云うことを、もうそれこそ道理をもって説いておられます。
成程天と地は吾が住家だと。生きても死んでも天地は私共の住居なのだと、神戎、神訓、御理解に依って、そこんところを私共がどんなに頭の悪い者であっても、その気になれば誰でもが合点が行く様に噛んで含める様に説いてある。その御理解もま、ここでは二十年来、神戎、神訓、御理解もまた噛んで含める様に説いてあるのが合楽の御理解ですね。それこそ、あらゆる角度から説いてある。
いやこれからとても説き明かさせて頂くであろうと思います。だから、そこには限りが有りません。こう有らなければいけないぞと云うことも、有ってはいけないぞと云うことも、それをいよいよあか抜けしたものにして行く為にもそれを本当のものにして行くには、それはもう限りがない事で有ります。そんなに簡単に神戎、神訓などが人間の誰でもがすぐ出来る様な事ならば読みが浅いだろう。
簡単なことだろうと、どうしてどうして頂けば頂く程それには深さがあり、広さがありと、云うことを日々私共が体験して行くことであります。そこんところにですね、信心させて頂く者は、こういう事であってはならないぞと説いてあるのである。しかもそれは,誰しもその気になれば出来る。不自然な行き方でなくして、もう自然に自然に生きて行くことが出来る。人間の例えばですよ、一生独身で過ごせと云う様な宗教があります。こんな不自然な生き方が有ろうかと思う位。
御神訓は信心させて頂く者はこういう在り方にならなければならないぞと、説いて有る。こういう在り方にならせて頂くと云うことは、もうその気になったら興味と云うかもう深々たるものがある。分からせて貰うたら、ああそうどころじゃない。そこどころじゃないと分かるその深さ、広さのですね、教えて下さることに依って、実に楽しくそれを身に付けて行く道と御神訓に説いておられます。それを噛んで含める様に御理解下さっているのが御理解と云うことですね。
だから皆さん、その気にならにゃいかんです。そりゃもう何十年参りよりますだけじゃいかんです。本気で信心させて頂くなら、こげな事はいかんと云うことは、すかっと改めて行かねばいかんです。そんなに難しいこと仰ってないのだから、そして信心させて頂く者はこう有らねばいけないと云うことは、本当にそういう道を歩かにゃいかんです。それこそ疑いを離れて広き真の大道を開け。
吾が身は神徳の中に生かされてありと、そこに成程この様な神様の御神愛の中に私共が生かされてあるんだなあと分かるところから、喜びの生活が出来る。私今日御神前に出らせて頂きましたらね、私が野山と云うかね、野原の様な所に立っておる。もう恍々たるお月様がね、空に懸かってある。いわゆる十五夜のお月様の様なお月様である。そのお月様ね、すとうっと足元に落ちて来られたのじゃなかろうかと思う位に、お月様の姿がそのまま私の足元に落ちて来ておる。
それが湖か何かと云うならね、川か海かと云うならお月様がそこに映られると云う事もありましょうが野山です。私がびっくりする程しの御心眼ですお月様がいわば、地上になる。昨夜は色々とここの増築のことの説明を受けましたので一時間位は掛かったでしょうか。それから何と信心話になりまして、それこそ夜の更けるのを忘れて五、六人炬燵の中で云うならば合楽の信心のギリギリの所を話させて頂いたのでございます。
もう何時あるかと聞いたら、もうやがて二時ですよと、云う様な時間まで信心話に更けていった。その中にどういう事からでしょうか、幹三郎が入院中の一ヶ月間の私の信心、信心の状態と云うものはと云う様なものをいろんな角度から。みんなその状態を知っている先生、秋永さん、文雄さん、正喜さん、久富繁雄さん、三男さんでしたか、居ておりましたが、私があの時の心の状態と云うものは、これからが。
これからが私の一生か掛かってもああ云う状態になれまいと思う位、他の御信者さんの取次させて頂くのに、幹三郎の取次させて頂いた時の様な気持ちであったら、まあ云うならば、完璧と思われる様な心の状態でお取次させて頂いておると云うこと。だからこれからは誰彼のお取次させて頂くでも、この状態で私はおかげ頂いたら素晴らしいことだと思う。と、云う様な話になりました。
教祖様が懇々と仰られる様な高い神徳を受けられたが、そうい心の状態と云うのは、そういう様な事でもあろうかと、これは正喜さんがそう云っとります。その時通った事だから私も出来ることじゃろうと思う。ならもしわが子のことだから一生懸命になったと云うことでなくて、息子の事だから出来た。私は自分の息子のことだから出来た。特別に息子のことだから、ひいきしたと云うのではなく、息子のことだからこれはもう、幹三郎の命は神様にいっぺに預けて仕舞うと心がけた。
外の信者さん方の場合、そんなことは出来ません。どうぞ助かりますようにと云う外にない。その助かります様にが、更になかったと云う事。助かります様にと云うことは、これは私の立場から、皆さんがどうぞ助けて下さいと云って願われる。最後の手術のいよいよギリギリの時なんかは末永さんが大きな声で、どうぞ幹三郎ちゃんの命を助けて下さいと一言までは神様は見向きもなさらんと云う状態であった。
二言目それを読んだ時、貴方の云うことが成りますと御理解頂いた。貴方が今願うておられる事は成就すると、これはまだ手術にかかる前の話であります。だから末永さんがどうでも幹三郎さんの命を助けて下さいと願われた事に対して、その事が成就すると云うのですから助かると云うことなんです。助かると云うこと。私、大坪総一郎個人としてはね、そういう願いと云うものは更々なかった。
実際、だからそういう様なことは、云うならば深刻な意味で話させて頂いとったが、ははあ、そういう様な心の状態でもあろうかと、私は御寝を頂ながら思うた。三代金光様の事を或人が評して地上の太陽だと申し上げた。正しく私共も地上の太陽と頂いておりました。だから、云うならば地上のお月様と云うことになる訳です。私は地上のお月様、三代金光様は地上の太陽、私は地上のお月様。
そんな風に一寸私は思うた。けれども、いやいやそうじゃない。これは人間氏子、今日私が云う人間誰しもが、その気になれば地上のお月様になれると云うことだと、云うことである。地上の太陽を金光様とするならば、私共人間氏子一人一人が地上の太陽にならなければならない。その地上の太陽とはどういう事であろうか。神戎の最後に申しました。信心する人の真の信心なきこと。
私共が信心させて頂くならば、本当に真の信心させて下さいと願わなければならない。それには、御神訓の一番初め今月今日で一心に頼め、おかげは和賀心にあり今月今日で一心に私共の心の中に私の心。私の心とはどの様な中にも和して入って行ける事なのである。只穏やかな心と云う意味ではありません。円満な心と思うておっても何かそこに嫌な問題が起こったらもう和の心が崩れるとするなら、それは和ではありません。
苦しいものでも、嫌な問題の中に入っても、その和が崩れないと云うのが和賀心の和なのです。そういう心にならせて頂くことを願うて行かなければならない。今月今日只今願うて行かねばならない。刻々その願いを持たなければならない。賀の心と云うのは祝賀の賀と仰る。中々難しい事ですね。何時も心に祝い目出度いと云う様な、正月の元日の様な心に、そういう心に私共は今月今日一心に頼んでいく姿勢を作れと云う事。
そこでまた御神戎に入ります。腹立てば心の鏡のくもる事。とありますね。御神戎一番最後のところと、一番初めのところにあります。御神戎腹立てば心の鏡のくもるととあります。私共は今月今日で一心に和賀心を願うと云うことは、もうこれは心の鏡の状態を願うことであります。いうなら、地上の太陽を金光様とするなら、私共は地上のお月様を目指して頂くことであります。 お月様そのものには光は有りません。
けれども円満であることだけは間違いがない。丸いと云うこと。その丸い心に地上の太陽の反射を受けて、それこそ昼をあざむく様な光がよる夜中でも、放つことが出来る訳なんです。恍々と十五夜お月様照り輝いてござる時には、ちょうど真昼の様な明るさでしょう。金光様のお徳を私共の心に照り返させて貰う。その太陽の光を私共の心の鏡に受け止めて行かねばならん。
ところが私共の心が曇っておってそれこそ、くれの暗になって仕舞うのである。そこでここでは、腹立てば心の鏡の曇ることと仰せられますが、私はここでは腹立てばだけじゃないと、ずるい事をすれば、心の鏡が曇るぞとも言えると思う。汚いことをすると心の鏡が曇ることにもなると思う。だからこそ、ここではより豊にとか、より美しうとか限りなく美しうなりましょうと云うことになるのです。
例えば、人を憎む。もうこちらの心の方が憎まれた方もさることながら、憎んだこちらの方も曇って仕舞うと云うこと。まだ、だからここには色々在ろうと思う。腹立てば心の鏡の曇ることと、言われることはです、ここではあああってはならないぞと、云う様なことの一つ一つが心の鏡が曇ることであります。二十八日の竹葉会に、椛目の中島茂子さんが発表しとられました。
本当に私はこの方を自分の信心の手本にしておると話しておられました。全然その方を知らない人が、今工場に務めておられますが、その工場に務めている女工さんで、中島茂子さんにこう言われた。今日は朝からね、夫婦喧嘩して、てんでやりやり腹ん立って腹ん立ってと言われる。ところが喧嘩しながら務めに出らして頂きよる途中で、御信心を頂いておられる或婦人に合った。
おはようございますと、言われるから、おはようございますと別に知った仲じゃないけれども、ところが中島さん不思議なこと、その方からおはようございますと言われたら今まで腹ん立ってむしゃくしゃしてどうもこうも出来なかったのがね、いっぺんに晴れたと言われた。いえあの方はそんな方ですよと云うておられましたと、云うて茂子さんが発表しとられました。
だから私共あぁ有りたい、もうあの人ばかりは若いもんからでも年寄りからでも、男からでも女からでも、それこそ本当に仏様の様に言われる人ですもん。と云うて話したと言われる。本当に信心がある訳じゃない。その人を詳しく知っている訳じゃない。けれどもその人の内容から発散しているもの、正しく云うならば地上のお月様である。是が今朝から夫婦喧嘩をして、腹の立って腹の立ってたまらなかったものが。
その人からおはようございますと一言云われたので、一寸声をかけられたので不思議な人じゃと云うて言われたと云うて、私共もそんなにありたいと云う、中島さんがそんなに云うて発表されとりました。合楽にはそういう人達が少しづつでも出来て行っておる。誰誰さんが部屋に入って見えると明るくなったと云う人達が合楽には段々出来て来ていると云う事。正しく地上のお月様になって行きよんなさる姿だと私は思うのです。だから私共はそれを目指さなければいけんです。
社会を明るくとか、清くとか云うてもです、云わずとも語らずでもその人の行くところが自ずと明るうなる。その人に合うたらむしゃくしゃしたその心までが、平常になる。と、相手に与える程しのもの、そういうものを私共は頂いて行きたい。腹立てば心の鏡の曇ることと云うこと。ね、腹を立てると云うことだけではない、と、云うことを色々申しました。そこで私共が地上のお月様を願わせて頂く為にそれこそ、今月今日只今、和賀心にならせて頂くこと、その和賀心に邪魔にならないものを改めて行く。
そしていよいよ和賀心にならせて頂く為の精進をしよう。それが神戎であり神訓であると。吾が心のお月様をこれ以上曇らせてはならない。と云うのが御神戎なら、それを愈々極めて行こうとする。これからこういう行き方になれよと、そういう云うならば、御神訓が私共の心をそれこそ、満月の様に円満な心に育てて行って下さる。ところが私共の心がね、私共の様にでぐらやみになったり、小さい小さい糸の様なお月様になったり、お月様やせ細って仕舞って行きなさる。
それでは明りも知れんものですから、私共の心の中にそれこそ満月の様な心を目指させての信心を目指さなければならんと云うことになります。これ程の教えを日々頂いておる。神戎によって、こうあってはならない信心をする者は、神訓に依って、信心する者はこうなければならないと教えられる。その事は教祖は難しいことは教えてはない。それを、何故そうあってはいけないか。
何故そうしなければならないかと云うことを、御理解では、噛んで含めるように、理解づけて下さる。そこんとこを、本気で行じて行く限り、もうそれこそ、楽しうして楽しうして、信心生活のいよいよ厚くなって來る。私は昨日お話させて頂くときに、先ず申しました。私は今日おかげの泉の十八回目の出ております。もう三回読みました。もう読ませて頂けば読ませて頂くだけ新たな感激が湧いて來る。
あんただんおかげの泉何遍づつ読みよるなと昨日聞きましたら、誰でも黙っている所を見ると一ぺんか二へん位しか読みよらんとじゃなかろうか。あれは毎日読みよるけん、いつか頂いたと思うとるもんな。読みよらんかも知れん。或は貯めよるだけかも知れん。そうじゃない。本当に一ぺん読むのじゃない。頂いてご覧なさい読めば読む程味わいが出て來る。信心は容易いものじゃが、氏子から難しうすると言われる。
容易位のことじゃない。それこそ楽しうして楽しうして信心が出來る事が、合楽のおかげの泉には色々の角度からお話してございますね。どうぞお互いがですね。地上のお月様を目指さそうじゃないですか。私が行く所に大きな光がそこに放たれるだけのおかげを頂きたい。そういう願いが神様が私共に掛けて下さる願いでもあると思うのですよ、ね。
どうぞ。